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聞き耳(淺井裕介×齋藤祐平) 紙電話・Live あいちトリエンナーレ関連イベント

2010.10.23  19:30〜20:30  
場所:長者町会場 丹羽幸ビル 南側空地
http://aichitriennale.jp/access/chojamachi.html#choja19



ライブペイントが行われた場所。
会期中アサイさんの映像作品が投影されていた場所です。




聞き耳(淺井裕介×齋藤祐平)の二人、仕込み風景。
テープで看板を。




映像は片面を二人の描いている絵を俯瞰で
もう片方では、二人の姿を映していました。





淺井裕介さんは、代表作として
マスキングテープを貼れるところならどこにでも展開できる植物絵「マスキングプラント」、
そして泥と水だけで描かれる壁画「泥絵」がある。

いずれの作品も、会期が終わると 回収して別の作品になるか、消されてしまうかして

残らない。



淺井さんはたびたび自身の制作において、
「絵を描いてそれによって何かを表現するというより、<描く事そのもの>に興味がある」
といっていた。

マスキングテープでつくる「マスキングバード」を作るワークショップ等で
淺井さんは、「手を止めないことで出てくる形」が大切であると言及してる。


淺井さんは
<描いてはいけないといわれているけれど本当に描いてはいけないのかな>
という場所にどんどん絵を描く。

その線はカンバス、「フレーム」からはみ出し、広がり、塗りつぶされ、消されては描き足され、
その深度を深めてゆく。

2010年に彼の千葉県柏『island』(現:island ATRIUM )においての泥絵制作を手伝ったときに聴いた言葉。

「絵の中に突入したい」「いつもここで終わりという気がしない」
(「絵描き・淺井裕介の今日」(2010.5))

淺井さんは、マスキングプラントを最後に大概剥がして「収穫」し、その場に残さず、「標本」や「タネ」として別の形に変換する。
「泥絵」も展覧会の会期が終われば、一部例外を除いて水で洗い流して消してしまう。

「がんばって描いたものを最後に消すのはすごくかなしいけれど
頑張った物を消すとき、次も良いものにするしかない。次に描いたとき<こんなもんか>と思われてはいけない」と言っていた。
またそれによって、<描きたい気持ち>が回収され、次につながってゆくのだそうだ。
(植物になった白線ブログメモよりhttp://hakusen-koganei-hakusen.blogspot.com/2011/01/2011115vol3.html






齋藤祐平さんも、絵の表層そのものに自身を表現するというよりも、
<描く行為>そのもの、<手を止めないこと>を目的に絵を描いているように思える。

というより、「絵描き」という人種は 皆そうなのかもしれないと最近思う。

齋藤さんは、紙であったり、板であったり「フレーム」を選択する。

そして提示された「フレーム」に対し、
 ・何を描こうか決めるでもなく筆を走らせ、偶然に引かれた線や絵の具の現象からヒントを拾い上げ、イメージにつなげてゆく描き方。
・あるいは、目の前の風景を紙を見ずに描いたかとおもえば、
・比較的丁寧に模写したり、
・記憶からスケッチしたり、
・他の人の技法や表象を模倣したり
その<絵を描くプロセス>は多様。

しかしいずれにしても、その描かれたものは作家の内面の情動を表すものでは無いように思える。
彼にとっては、<絵を描く行為>そのものを動機にしながら、
<絵をつくるということの 前・中・後のプロセス>が大事なことのように思えた。


彼は 絵を工(つく)る。


そしてその描く手は、

レームに対しての 
線や色のバランスと、
線や絵の具の現象だったものが
何らかの情景を徐々に浮かび上がらせ
抽象から具体性を帯びる、そのギリギリのライン
 
とめられる。
完成に対するその見極めは絶妙だ。



そして彼の絵の完成は物凄く早い。

それには必ずタイトルがつけられるのだが、
それも描き手の情緒は排除され、
描かれた<イメージそのもの>あるいは素材そのものの言葉が選出されるように思える。

情景の具体的な設定や演出は廃され、
「this is it」(~が~である)という具合で、
人間は「誰々」ではなく「this・that」に。
具体的なキャラクターが描かれても、「he」ではなく「man」になる。
ないている人も「悲しい」人ではなく「泣く」人になる。
エロを扱った絵をみても、性的な情動をそそるものとして演出されることなく、
ただそこに(多少のおかしみさえ含んで)描写されているよう。



絵描き・齋藤祐平の活動領域は
「手製本」「個展」「キュレーション」「イベント企画」「ライブ」など多岐に渡る。
一見すると一貫性のないようにも見えるその諸活動だが、

<”絵を描く行為”を軸に据え、その集積を取捨選択・構成・配置・関連付け・調整する編集(工作)>

と捉えると、齋藤さんの作家としての中心軸が見えてくるように思われた。

先のタイトルのつけ方もそうだ。
タイトルは通常<演出行為>だが、彼のタイトルのつけ方は<編集行為>なのである。
<演出>は(効果音が解りやすい例だが)情緒・予感・期待を煽るために作品の内容を膨らませるプラスの行為だが、
<編集>は(映画等の編集作業が解りやすい例だ)余分な要素をカットして整理してゆくマイナスの作業が基本にある。
彼の付けるタイトルが、
余分なものを排されて<イメージそのもの>あるいは素材そのものの文型を取るのは、
そういう性質によるもののような気がする。

そして
紙や板に描くことが多い齋藤さんの絵は、当然

どんどん蓄積される。


その後、彼は自身の手で自身の絵を 集積し、採集・同定・分類し、丁度音楽で言うベストアルバムのように「手製本」としてレコード化してゆく。
それは1点モノから、複製することを前提としたペーパーにまで及びます。
この「集積」は齋藤さんの制作に、絵を描く以前の段階から入り込んでいて、
たまったレシートの裏や、録音したテープや、旅行先の切符、あらゆるスクラップが彼の素材となっている。


<描く>
・ 素材の集積を取捨選択
→フレーム(支持体)へ、発的線や絵の具の現象もしくは、記憶、眼前の情景から関連付け・調整し「某(なにがし)」というイメージ「絵」を展開、構成・配置する。

<描いた後>
・完成した絵の集積を取捨選択
→フレーム(本という形)を選択し、秩序(テーマ)を定め「手製本」へ
→フレーム(場所)を選択し、秩序(テーマ)を定め「個展」「ライブ」へ
展開、構成・配置する。

<場所とそこでの出来事>
・ 自身の中にある他作家に対しての情報に秩序を見出し、関連付け・調整
→フレーム(場所)を選択し、秩序(テーマ)を定め「キュレーション」「イベント企画」「ギャラリー運営」
展開、構成・配置する。


彼の活動はどの領域においても一貫して、現実や現象や人や場所に対して秩序をどう見、どう組み立てるのかという編集のプロセスを通過していると思う。
そしてその動機にあるのは、<絵を描く手を止めたくない>という絵描きとしての本質だと思った。








両者とも絵を描く行為そのものを目的としながら、

 フレームをはみ出し、深度を増してゆき、完成の無い、一回性を大切にする淺井さんと、

 提示されたフレームに秩序を見出して整頓し、完成を見極め、大切に集積してゆく齋藤さん
のユニット「聞き耳」。



絵描きが数人で一緒に何かを描くライブペイントでは
まずなにより描き手は、「こういう絵を描きたい」事よりも、
「手を動かして絵を描きたい」を共有しているから 成立する。


「聞き耳」が、何がしか<聞き耳にしかないおもしろさ>を孕んでいるのは


 次から次へと新しいものを発見するように素材やフレームや空間を越境して、塗りつぶしたり破いたり「むちゃくちゃ」にしてしまう淺井さんのアクションと

 その現象の中に、瞬時に秩序を見出し、組み立て、反応できる齋藤さん

あってのものなのではないかと思った。
(淺井さんのブログに、齋藤さんとの「聞き耳」について言及している記事があります)
http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/20091211



とにかくは
それより

「聞き耳」は かっこいい。